時実象平年譜
(早稲田大学佐藤洋氏による) 執筆記事はこちら
年譜資料 : 時実象平「著者自己紹介」
(岩崎昶・北川冬彦監修『世界映画の鑑賞』、双龍社、1950年 所収)
時実象平「川島雄三と私と映画集団」
(『映像文化』、第6号、1963年9月 所収)
今村太平 「映画批評家論」『映画理論入門』
(現代教養文庫、1955所収)
多くは、本人からの聞き取りに基づいた佐藤洋による調査による。誤りは適宜 修正のこと。
年代 経歴・代表的執筆論文・編著
1914年1月10日 岡山県牛窓で生まれる。
1926年(1925年度)就将尋常小学校卒業。
1932年 岡山一中卒業
中退する。その後、明治大学文藝科入学。映画研究会入部。ともに活動した研究会の後輩には、飛鳥田一雄や川島雄三がいた。
で、今村太平をはじめとした数多くの終生の友人たちと出会う。
国際映画通信社入社。『国際映画通信』・『国際映画新聞』記者として活躍。
1940年12月 『映画旬報』編集部へ入社。中心的記者として活躍。代表的業績は満洲映画・朝鮮映画特集号の企画・編集。
1943年 統制下の事情により、『映画旬報』を退社。その後、満映東京支社へ入社。
中国へ出征する。
1945年 敗戦。
1946年3月 『キネマ旬報』が再建される。
4月5日 二年ぶりに佐世保へ帰国する。岡山の実家へ帰ると、友田純一郎から『キネマ旬報』編集部へ入社を請う書簡が届いていた。すぐに『キネマ旬報』編集部へ入社し、中心的編集者として活躍する。
1949年3月 『キネマ旬報』従業員組合結成。代表となる。
1950年4月 『キネマ旬報』社で争議がおこり、同誌は消滅する。編集部員たちも分裂する。
1950年8月 『映画新報』を創刊し、編集長となる。
「映画企業論」執筆(『世界映画の鑑賞』所収)。
1952年7月 『映画新報』の経営が立ち行かなくなるが、合同通信社の大澤・北浦らに請われて『映画時報』を創刊し、同通信社の『映画評論』をもひきつぐ。時実は『映画時報』の実質的な編集長として活躍する。
1954年 「製作・配給・興行」執筆(『マスコミュニケーション講座4』所収)。
1955年 「プロデユーサー・システム論」執筆(『現代映画講座1』所収)。
「映画企業について」執筆(『映画を心ざす人に』所収)。
1957年 キネマ旬報社嘱託となり、『キネマ旬報別冊 日本映画大鑑』刊行にとりかかる。
10月 『世界映画資料』創刊・同人となる。
1959年12月 「戦艦ポチョムキン」上映促進の会が正式に発足し、その代表となる。
『戦艦ポチョムキン』編集、発刊する。
「自主上映促進会全国協議会」を発足させ、代表となる。
1960年1月 『キネマ旬報別冊 日本映画作品大鑑』(全7巻が1961.7月まで
に発刊される)を編集、発行する。
1961年 『伊丹万作全集』(全三巻)を編集し、発刊する。
1962年 『日仏交換映画祭』全二冊を編集。
1963年 「独立プロ名画際」を主催する。
「自主上映促進会全国協議会」が「全国自主上映協議会」へと改称
『自主上映』を編集、発刊する。
『シネクラブ』を編集、発刊する。
社で働く。映画『ひとりっ子』のパンフレットを編集する。
1971年 森園忠監督『この青春』(新星映画社)の製作者をつとめる。
1972年 深作欣二監督『軍旗はためく下に』(東宝・新星映画社)の製作者をつとめる。
1973年 吉松安弘監督『さえてるやつら』(東宝・新星映画社)の製作者をつとめる。 中山節夫監督『兎の眼』(共同映画全国系列会議)の製作者をつとめる。
の製作者をつとめる。
年に今村太平の会が発足するに際して、その世話人をつとめる。
1987年 亀井文夫監督『生物みなともだち』製作に参加する。
1991年 『今村太平映像評論集』(ゆまに書房、全10巻)を編集、発刊する。第9巻の解説を執筆。別に『今村太平の会会報』も編集する。
映画『小泉八雲』製作準備中。
2006年1月29日 逝去。享年92歳。