世界に於ける化学的文献抄録事業に就て
日本化学総覧主幹
理学博士 真 島 利 行
序
今回不肖の退官記念事業会より多額の金子を日本化学研究会に御寄附下されて,同会の事業を御援助下されたことは実に感謝に堪えない次第である。茲に御同情を忝うした大方各位に対し同会を通じて厚く御礼を申上げます。
併し寄附者各位の中には未だ日本化学研究会の事業に就いて余り深く卸承知のない御方も有られるかと存じ同会の行い来った化学的文献抄録事業というものゝ世界に於ける状況並に我邦に於ける現状から其の将来の希望等に就き概略を茲に記述して御高覧に供し同時に之を以て御礼の辞の一端に致した次第である。卸閑暇の節御一読下されば大幸に存じます。
本文中に挙げた各種の計数等に就きては藤瀬教授,萩谷学士及び日本化学研究会の編輯員各位の調査に負うところが多大である。茲に附記して謝意を表明する。
昭和16年1月16日
著 者 識
目 次
(一)抄録雑誌の必要性に就て
(二)独乙仏米に於ける化学的文献抄録事業概要
(イ)独 乙
(ロ)英 吉 利
(ハ)仏 蘭 西
(ニ)北米合衆国
(三)本邦に於ける化学的文献抄録事業
(イ)外人の化学的文献の邦語抄録
(ロ)日本人の化学的文献の抄録誌 日本化学総覧に就て
(四)邦文の世界的化学総覧の刊行に就て
(イ)経費概算
(ロ)抄録事業担当者に就て
(ハ)抄録事業経営の母体に就て並に結言
世界に於ける化学的文献抄録事業に就いて
日本化学総覧主幹
理学縛士 真 島 利 行
(−) 抄録雑誌の必要性に就て
今日我邦で最も強く叫ばれ来つて居ることの一は実に我邦学術の振興という事である。其内でも特に産業と国防に関係の深い自然科学及び其応用に関する研究を盛ならしめねばならぬと喧びすしく論ぜられて居る。
さて苟くも研究という以上は,多少ともそこに新味があり前人が未だ企て及ばざりしところを成就せんとするものでなければならないことは言うまでもない。それ故に研究に着手せんとして或問題を撰定し,研究方針を決定せんとするに当っては,其方面の事項は巳に如何様に研究せられあるやを知悉せなければならない。若しも此文献の調査が不充分なる時には不知不識の間に已に前人の行いたる研究を再試したことになって,自己の労力と時間並に物資を徒費する事がないとも限らない。甚だ嶄新なる事項に非ざる限り,今日では如何なる問題でも多少とも手を着けられてないものはないと言うてもよい。併し充分に文献を調査した上で,研究の余地ありと認めたならば新しき学説に基き新尖なる研究方法を工夫して其撰んだ問題を更に研究すべきである。
斯くして初めて前人未到の新しき結果を挙げ吾人の智識を自然界に一歩前進せしめ得るのである。また研究の中途に於ても他人が同様の研究を行い,之を先きに発表することがあるかも知れない。また然らざるまでも自己の研究に大に参考となる如き報告が出る事がある。それ故に研究を始める前に充分に文献を調査するのみでなく,研究中にも常に之を怠ってはならないのである。
併し研究所の専任者でなく学校関係者であるならば一方に研究をやりながら講義や学生の実習や研究の指導をもやらねばならぬ。其の上絶えず多数の文献に眼を通すことは非常な骨折りである。故に此労力を出来るだけ軽減せんとすることが自然の要求となって来るのである。茲に於て新研究の要領を成るべく速に抄録して通覧に便ならしめた雑誌を迅速に発刊することが研究者にとりて最も必要となるに至るのは当然のことである。又立派な創意,創造と言うても天啓的に或は棚ボタ式に来るものではない。皆何事かを苦心研究中困難に遭い,昼夜工夫をめぐらして其突破を企てる時に何かにヒントを得てよき思い附きとなり,嶄新なる創意を得て其目的を達するのである。この時他人の研究結果から啓発せられることが多い。此意味からも化学的文献の抄録は極わめて重要性を有するものである。
されば各種の自然科学に於ても,亦医学や工学に於ても抄録を載せる雑誌が出現した。
就中化学は自然科学の中でも物質の本質の変化を研究するものであるから,純理の方面のみならず,鉱産資源の開発利用から,国防上重要なる各種資材の供給はいうに及ばず,衣食住萬般の物資に至るまで化学的研究によりて改良進歩せしめ又は新機軸を出すべき領域は甚だ広大且つ深刻なるものがある。従て化学関係の新研究を載録する雑誌や報告は甚だ多数である。大体我邦に於ても300種を越え,世界を通ずれば3,000種を下らない。故に化学的文献抄録雑誌の発刊は極わめて必要なる事業となって来るのである。
(ニ) 独米英仏に於ける化学的文献抄録事業
(イ) 独 乙
流石化学研究の本場である独乙国では今を去る111年前(1830年天保元年)から巳に此種の雑誌を出して居る。12年前(1929年昭和4年)に其100年記念式典を挙行し,編輯主任マキシミリアン・プリュッケが「化学中央誌の百年」と題して其由来と現状とを述べて居る。以下其要点を略記する。第1巻第1号の発行は1830年1月14日であった。当時の独乙では化学は未だ薬学の下風にあったから誌名も薬学中央誌Pharmazeutische−Centralblattと称せられた。其使命として主任は「本誌の目的は薬業者に必要なる事項にして内外の研究に現れたるものを簡潔に抄録して直に其結果の要点と其学術上の関係を知悉せしめるに在る。仏,英,蘭,伊諸国の文献をも網羅する」と称した。初め月刊であったが巳に同年9月から隔週刊行となった。先行書肆はライプチッヒのレオポールド・ヴォッス社Leopold
Vossであった。初年度の分即ち第1巻は総頁数544,抄録件数400というから,以て当時の研究状況が窺われるのである。
初代の編輯主任はダスターフ・テオドル・フェヒナーGustav Theodor Fechnerであった。彼は後年ライプチッヒ大学教授となり自然哲学者として名を成した。5年後1835年にフェヒナーは其任をクリスチャン・アルベルト・ワインリヒChristian
Albert Weinlig譲った。ワインリヒは1844年まで9年間其職に在りしが後エルランゲン大学の国民経済学教授となり更にザクゼン王国の内務大臣になった。彼に代って編輯を主宰したのはブッフハイムR,Buchheimであった。1845−1847年迄其任に在り,後年薬理学に大なる貢献をした。
1848年にウイルへルム・クノープJ.A.L.Wilhelm Knop が代って主任となった。クノープはウエーラー,グメリン及びエルドマンの助手を勤めた人で,1862年迄14年間編輯に従事した,其間に誌名が2回変化した。即ち1850年に化学並に薬学中央誌Chemisches
und Phamazeutisches Centralblatt,続いて1856年に現今の名称化学中央誌Chemisches
Centralblattとなった。此れ化学的研究が益増加して誌上に於て年と共に厭倒的の面積を占むるに至ったためであった。氏は後年メッケルンに在る農事試験場長を兼ねたが遂に編輯主任の職を試験場の助手ルドルフ・アレントRudolf
Arendtに譲った。アレントは幼にして孤児となったが堅志力行,労働して家族を養いながら勉学して遂にクノープの助手となった人である。アレントは74歳で1902年に世を終るまで実に40年の長きに亘って化学中央誌のために尽力した。本誌が世界の全化学的文献を網羅して一定の方針の下に抄録を行う基礎は同氏によりて築かれた。氏は最初経営の困難なりし本誌の信用を高めて大いに購読者を増加した。本誌を愛することは恰も其子を愛するが如くであった。本誌は其性質上原著者より抄録に対する非難と抗議とが絶えなかったが少しも之を苦にせず却って少くも本誌がよく続まれ利用される証左であるとして喜んだということである。
而て益々本位の重要性が認めらるゝに及びて遂に1895年明治28年に独乙化学会は其発行をボッス書肆より譲受ける交渉を始め,遂に15,000マルクを支払いて其目的を達した。斯様にして化学中央誌は1897年(明治30年)1月以降独乙化学会より発刊せられ,同時にそれまで独乙化学会誌に載せられた抄録を廃して無益なる重複を避くるに至った。1900年(明治33年)伯林の独乙化学会々館ホフマンハウスの建築成りてより2年にしてアレント世を去るに及び,化学中央誌編輯所は其創業の地ライプチッヒを去りて,ホフマンハウス内に転じて今日に至って居る。アレントに代りて編輯主任となったのはアルベルト・へッセAlbert
Hesseであった。氏はワラッハの門下で香料化学に関する貴重なる研究がある。へッセは1923年(大正12年)迄21年間勤務した。其間応用化学雑誌Zeitschrift
fur angewandte Chemieに載せられたる抄録を廃して化学中央誌上の化学エ業方面の抄録を拡張増加した。又1921年から外国特許の抄録を加えて逐年之を強化した。へッセの主宰した期間の後半は第一次世界大戦及び戦後独乙国内のインフレーションのために非常なる困難に遭遇したが,能く之を切り抜け本誌の発行を励行したことは多とせねばならぬ。1924年(大正13年)以後は長くへッセの下に其の編輯を助けて居たプリユッケMaximillian
Pfluckeが本誌の編輯主任となり現在其任に在る。一昨年その就職25年を祝して独乙化学会長リヒヤルド・クーンの名を以て感謝状が贈られた。経費の関係上分類事物索引Systematisches
Registerが1923,1924の両年廃止せられたのをプリユッケになって1925年から復活した。之はアレント時代に創始せられる重宝なる索引であった。但し復活に当りては以前の如く別個の索引とせず事物索引SachーRegisterに於て事物を大体,項目に従って分類したものとなし,事物索引にして同時に分類索引を兼ねしめ且つ無用なる紙面の増加を避けたるもので,正に一石三鳥の効果を奏したといえる。また1925年以後は毎年事物索引の次に有機化合物の化学式索引Formel-Registerを附して其検索に便ならしめて居る。之はリヒテルRichterが始め,ステルツナーStelznerが継承した有機化学者には甚だ便利な出版物であったが1921年で杜絶した。之も独乙化学会が引き受けて1922−1924年の3年間のものから化学中央誌総索引第6巻(1922−1924)に載録し,その後は毎年の化学中央誌に之を附して居ること上述の如くである,又総索引には之を集載して居る。斯くて化学式索引は毫も間隙なきに至った。序にいうが独乙化学会が化学中央誌を引さ受けてから毎年5年毎に総索引を附し已に第9巻に達して居るが其間総索引第6巻だけが上記の如く3年分であるのは恐らく化学式索引の継続発行を急いだためでは
なかろうか。之を以ても如何に独乙に於て文献検索の便宜を計るに熱心であるかが察せられよう。
今下に化学中央誌によりて世界的化学文献が増大し行く状況を示し,抄録事業の益必要なる所以と併せて其事業の困難性とを察せられる資にしたい。
化学中央誌発達状況
年次 |
|
原報所載雑誌数 |
常任抄録員数 |
抄 録 件 数 |
1901 |
明治34 |
約 130 |
約 22 |
5,889 |
1914 |
大正 3 |
〃 140 |
37 |
8,300 |
1921 |
大正10 |
〃 280 |
55 |
22,453 |
1928 |
昭和 3 |
〃 550 |
142 |
36,424 |
1938 |
昭和13 |
〃 3,000 |
244 |
69,708 |
化学中央誌に関する収支計算は本世紀の初め頃には明示せられ黒字であったが,暫くして漸次決損となった,其後詳細なる報告は載せられないから,甚だ古いが1907年(明治40年)のものを示すと已に下の如く若干の赤字である。
化学中央誌収支計算表 1907年
|
マルク |
|
マルク |
印 刷 費 |
25,092 |
会員予約払込 |
85,268 |
雑 誌 購 入 費 |
2,642 |
バックナンバー及分冊売上 |
1,683 |
郵 税 |
8,592 |
書店売上高 |
4,604 |
俸 給,報 酬 |
14,050 |
|
61,555 |
抄 録 料 |
14,091 |
|
|
特許報告購入費 |
1,575 |
|
|
雑 費 |
147 |
|
|
|
66,192 |
差 引 不 足 |
4,637 |
序に総索引に関する収支計算を挙げて見よう。
化学中央誌総索引 第2巻(1902〜1906年)
収 支 計 算 表
|
マルク |
|
マルク |
編輯手当残額 |
6,000 |
売 上 高 |
13,147 |
印 刷 費 |
15,225 |
|
|
|
21,225 |
差 引 不 足 |
8,078 |
則ち総索引の赤字は一層大である,最近は収支に関する詳報を欠くと雖,下に会員数と頁数 との増加を挙げて見る。之れによって会負数は僅少の増加であるに拘わらず頁数の増加は非常 に著しい事が知れる。従て欠損が一層大なるべきを察しえられる。
年 次 |
独乙化学会々員数 |
化学中央誌総頁数 |
1906 |
3,359 人 |
4,290 頁 |
1938 |
3,464 |
11,641 * |
*内訳 抄録本文9194頁,著者名索引960頁,特許索引64頁,
分類事物索引1,044頁,分子式索引379頁
最近の化学中央誌編輯陣を挙ぐれば
(イ)編輯主任1名,(ロ)同副主任1名,(ハ)編輯員6名,(ニ)分類事物索引及び総索引編輯員6名, 合計14名を擁して居る。其資格を見ると(ハ)の内にProf.Dr.教授博士の肩書ある1名(ニ)の 内にDip1.ing.工学士の肩書ある人1名あるが,他は皆Dr.博士の肩書を有し,而かも(ニ)の 内には2名の婦人Dr.がある即ち皆自ら研究の経験あり,且つ専門的に最高の知識を具えて居 ることが判る。之によりて其経費は人件費だけでも相当の額に遵することが察せられる。即ち化学中央誌の発刊は到底収支償わざる事著しきものがあるに相違ない。それにも拘わらず能く其発行を為し得るのは化学文献整理促進バイヤー協会”Baeyer-Gesellschaft
zur Forderung der Chemischen literatur"なるものあり其会員の寛大なる醵金によりて独逸化学会を援助して居るからに他ならぬ。
之にて独乙の状況を終るが,歴代の編輯主任につきて稍祥述したのは皆立派な学識ある一流の学者であったことを示したいためであった。筆者は3年前伯林ホフマン・ハウスを訪れた際プリュッケによりて隈なく編輯所の案内を受けた。プリュッケは年齢は50代であろうが,年より若く見える血色のよい元気溌刺たる人であった。そして独乙の化学のために最重要なる仕事を担当して居るという自信と満足とが其言動に現れて居たのを見た。而て実際独乙国の化学及び其応用の進歩発達の上に,この早くから存在した化学中央誌が如何に多大なる貢献を致して来たかは蓋し計り知られぬものがあるであろう。此事は以下示す如く英,仏,米に於ても 亦独乙に做い多額の費用を投じて化学文献抄録事業を遂行して居ることによりても明白である。
(ロ)英 吉 利
英国には現在化学抄録誌Chemical Abstracts がある。之に就て聊か其歴史を調べて見ると英国の化学的文献抄録は倫敦化学会誌Journal
of the Chemical Society of Londonに1871年(明治4年)以後載せられた。因にいう倫敦化学会は1841年(天保12年)に創立せられて其歳より会誌を出して今日に至て居る。1924年(大正13年)になると抄録は別に原報と別けて化学会よりは抄録A.純正化学Pure
Chemistryの方を出し,倫敦工業化学会Society of Chemical Industry.Londonよりは抄録B.応用化学Applied
Chemistryの方を出すことになり之が共に化学抄録編輯所より発行せられるに至った。1926年く大正15年)以後は此等が英国化学抄録誌British
Chemical Abstracts A及びBとなった。1937年以後は純正化学の抄録Aを更にT・一般−,物理−及び無機−化学,U・有機化学,V・生化学の3部に分けて配布して居る。而て英国化学会員は希望すれば純正化学の抄録即ちAの部を会誌(原報のみ掲載)と共に送られるが,希望せざれば会誌のみより送られない。又,Aの方のT,U又はVのいづれか限定希望してもよろしい。尚英国化学会の特色は化学進歩年報Annual
Report of the Progress of Chemistryを1905年以来出して居ることであって,化学抄録誌Aを取らなければ此方を無償で得られる。又抄録Bも英国化学会員の希望者には割引して供給される。
英国化学会の化学抄録誌は極めて大さな版型であるが,試に1934年のものに就て其Aのものだけの頁数を挙げると
抄 録 本 文 |
1,422頁 |
|
著者名 索 引 |
382〃 |
Bと共通 |
事 物 〃 |
290〃 |
Bと共通 |
特 許 〃 |
11〃 |
Bと共通 |
其Bの方の頁数は
抄 録 本 文 |
1,118頁 |
|
著者名 索 引 |
382〃 |
Aと共通 |
事 物 〃 |
290〃 |
Aと共通 |
特 許 〃 |
11〃 |
Aと共通 |
(ハ)仏 蘭 西
仏国の化学会誌Bulletin de la Societe Chimiqueは1858年(安政5年)に第l巻を出しているが,初めから純正化学及び応用化学両方面の抄録を附け寧ろ之が主となって居た。之がまた仏国人の研究抄録と他国人のそれとに区分せられて居た。其後時々編輯の仕方が少し宛異ったが大体に於て変化はない。例えば1892年(明治25年)から原報及び会務報告並に仏人研究の抄録を奇数巻に収め,外人研究の抄録は偶数巻に収めるようになった。
1907年(明治40年)に誌名がBulletin de la Societe Chimique de Franceとなった。それまでは末尾にde
Parisとあって巴里化学会誌と称した。1921年(大正10年)からは原報と会務報告とを奇数巻に収め,抄録は内外を問わず全部偶数巻に収められた。1934年(昭和9年)からは原報はMemoiresとして発行された版型は従来の通りだが,之と引き離して抄録の方は英国化学会のBritish
Abstractsの如き極めて大型となり,其名もDocu-mentationと改められて刊行せられるに至った。
今その頁数を挙げると下の如くである。
Documentation (1938年)
抄 録 本 文 頁 数 |
800 |
著 者 名 索 引 頁 数 |
157 |
事 物 索 引 頁 数 |
156 |
以上によりて英,仏ともに各其行き方には少異はあるが,各其国語の世界的化学抄録誌を有し,最近には皆殆ど独逸に於けると同様に其国の化学会から抄録だけを原報と引き離して出して居ることが知れた。次に北米合衆国に就て見ると之は最初から独逸化学会のごとき行き方をして化学抄録誌を出して居ること次節に記す通りである。
(ニ)北米合衆国
U,S,A,に於てもノイエス教授W.A.Noyesの主唱によりて,アメリカ化学会は1907(明治40年)より初めて抄録誌Chemical
Abstractsを出版し,本年は其第35巻に達して居る。
其編輯所の人的構成を見るに編輯主任1名,副主任5名,編輯員54名が居る。即ち合計60名で,抄録員は444名に及んで居る。即ち流石は持てる国だけあって同じ仕事をするのにも独逸に比べて遥に大掛りであるのに驚く次第である。
今其1939年の抄録誌の経済状態を少しく調べると次の如きものがある。
支 出
アメリカ化学会 |
会 員 数 |
21,591人 |
化学抄録誌 |
発行部数 |
14,000部 |
同 上 |
出 版 費 |
198,732弗 |
同上1部当り |
出版費 |
14,2弗 |
収 入
化学抄録誌1ケ年代金 |
12弗
|
同上lケ年総代金* |
168,000弗 |
(*14,000部が皆売れたものとして計算す)
之だけでも約3萬弗の欠損となるが,以上出版費には事務的経費が包含されていない故に之をも加算すれば尚不足は増大する。
今1939年の化学抄録誌の
を独逸の化学中央誌に比べると件数は伯仲の間に在るが頁数は著しく少ない。之は化学抄録誌に用いらるゝ字型が小なることゝ抄録が稍簡単なるがためである。
(三) 本邦に於ける化学文献抄録状況
本邦にては未だ世界の化学的文戟を独,米,英,仏のごとき程度に抄録して登載する専門の雑誌を出すに至らない。之は従来我邦にては其存在を要求するはど化学的研究が盛大でなかったのと之を必要とする人は皆英又は独の抄録誌に依存して居たのに由る。然れども現今では已に形勢一変して往々にして其必要を叫ばれるに至った。今先づ以下に我邦に於ける化学的文献抄録の現状を検討して見よう。
(イ) 外人の化学的文献の邦語抄録
現在我邦に於ては約40種の学術雑誌に於て各自任意に其専門上の化学的文献中より選択的に抄録を行い,之を掲載する程度である。其間に何等の聯格も統制もないから多少の重複抄録があるかも知れない。其大別を示すと次の如くである。
外国の化学的文献の邦語抄録を載せる雑誌と抄録件数
雑誌の分類 |
雑 誌 数 |
抄 録 件 数 |
理 学 関 係 |
5 |
587 |
工 学 〃 |
15 |
5,184 |
医 学 〃 |
15 |
2,043 |
農 学 〃 |
5 |
669 |
合 計 |
40 |
8,483* |
*此の内報文7,782,特許701.
今以上の雑誌の内から会員数1,000名を超えるものに就て其会員数と抄録件数とを示すときは下の通りである。但し化学関係の重要雑誌にて会員数1,000名以上を算するものは外国文献抄録なきも之を附紀して会負数のみを挙げた。
雑誌の分類 |
誌 名 |
会員数 |
外国化学文献
抄録件数 |
理 |
日 本 化 学 会 誌 |
1,000以上 |
- |
エ |
工 業 化 学 会 誌 |
6,000 〃 |
1,416 |
〃 |
日 本 金 属 学 会 誌 |
4,000 〃 |
811 |
〃 |
鉄 と 鋼 |
3,000 〃 |
160 |
〃 |
電 気 化 学 |
2,000 〃 |
1,005 |
〃 |
大 日 本 窯 業 協 会 誌 |
2,000 〃 |
350 |
〃 |
熔 接 協 会 誌 |
1,000 〃 |
65 |
〃 |
繊 維 工 業 |
1,000 〃 |
218 |
〃 |
九 州 鉱 山 学 会 誌 |
1,000 〃 |
121 |
医 |
児 科 雑 誌 |
2,000 〃 |
115 |
〃 |
産 婦 人 科 紀 要 |
1,000 〃 |
245 |
〃 |
岡 山 医 学 会 雑 誌 |
1,000 〃 |
61 |
〃 |
日 本 衛 生 化 学 会 誌 |
1,000 〃 |
40 |
薬 |
薬 学 雑 誌 |
4,000 〃 |
− |
農 |
日 本 林 学 会 誌 |
4,000 〃 |
101 |
〃 |
日 本 土 壌 肥 料 学 会 雑 誌 |
2,000 〃 |
370 |
〃 |
日 本 農 芸 化 学 会 誌 |
2,000 |
− |
|
|
|
計 5,078 |
即ち会員数1,000人以上を有する学会の雑誌に載せられる外人の化学的文献の抄録総数は其全数8,483に比して8分の5弱である。而し此全数8,483でも之を独逸の化学中央誌の総件数に比すれば約8分の1に近い。併し同じ物が2ケ以上の雑誌に抄録せられてあるものもあるかも知れぬにより,実数は之よりも下るものと考えねばならぬ。最多数の会員を有する工業化学会誌では流石に我邦では最も完備した抄録を載せて居るが,それとても僅に1,146件とは憐れなる状況といわねばならぬ。其他の雑誌に至っては所謂「無いよりはましだ」という程度である。
我々日本人は独逸の化学中央誌或は米,英の化学抄録誌に依存して漸く世界の化学研究の全般的状況を窺知し得るのみであることは以上示すところに由て明瞭であろう。
依て我邦でも邦文の世界的化学中央誌の必要が唱えられる所以であるが,之に就きては後段(邦文の世界的化学総覧刊行に就て)に検討してあるところを見られたい。
(ロ)日本の化学的文献の抄録
日本化学総覧に就て
日本人の化学的文献は之を英,独,仏語の何れかにて発表するか又は少なくとも其要点を此等の外国語にて附記せなけれぱ国語の難解なるために独逸の化学中央誌又は米,英,仏の化学抄録誌等には載せられない。近頃は米国化学会で邦人に抄録員を依嘱して居るようであるが,夫れでも日本人の化学的文献で唯邦文のみで記されたものは先づその大部分は海外にては抄録せられず,従て海外には全く知られずに終るものと思わねぱならぬ。其上10数年前までは我邦には邦人の研究報告の完全なる抄録雑誌さえも存在しなかった為に,邦人の化学的業績を調査することが外人の業績を調査するよりも遥かに骨が折れる場合が有った。之は実に不合理且遺憾極まる事柄である。然るに邦人の化学的研究の中には本邦又は東洋に特有なる天産物又は其加工品に関する諸種の貴重なる研究があるのであるから,我邦の化学者たるものは此等をよく調査して先づ速に其研究を大成して学界のために貢献すると同時に我邦の産業の開発に資せねばならぬことは勿論である。是に於て此状態を是正して我邦の化学者に便益を与えんとしたのが本邦に於ける化学的文献の完全なる抄録事業であった。之は大正7年(1918年)頃
より筆者によりて計画せられたのであったが,各方面より多大の援助と協力を受けた結果着々編纂事業を進行せしめ,遂に大正15年(1926年)に財団法人日本化学研究会を組織し,此会に於て日本に於ける化学的文献を出版することになった。而て明治,大正年代の化学的業績は昭和2年(1927年)より同13年(1938年)に至る間に7冊の書籍にまとめ「日本化学総覧」第1集として世に出し,同時に昭和2年以後のものは月刊雑誌「日本化学総覧」第2集として刊行し,毎年1巻にまとめ,本年巳に第15巻に達して居る。
即ち昭和2年以後は我邦に於ける化学的文献の調査は部分的に次第に便利となったが,昭和13年に至りて初めて明治,大正,昭和の3聖代を通じて,我邦の全化学的文献の調査は容易となった。然れども巳に第1及び第2の両集を合して22巻を算するに至りたるを以て,1巻毎に索引を調べて行くことは相当面倒なりと思われるによりて,目下日本化学研究会の皇紀2600年奉祝記念事業として昭和15年までの総索引を編纂中である。之が完成すれは検索上更に一段の便利を告げるであろう。
今下に「日本化学総覧」の最近の状況を示す
日本化学総覧第13巻昭和14年(1938年)の状況
抄 録 件 数
分 類 |
報 文 |
特 許 |
|
理 |
1,531 |
20 |
|
工 |
1,353 |
2,377 |
|
医薬 |
1,591 |
256 |
|
農 |
179 |
75 |
|
計 |
4,654 |
2,728 |
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合計 |
|
|
7,382 |
抄録本文頁数 |
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746 |
索引頁数 |
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276 |
計 |
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1,022 |
同年に於ける日本化学総覧発行に関する経費を下に示す
印刷費 |
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円 |
|
円 |
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本 文 748頁 |
5,204.29 |
会費及び売上高 |
12,877.36 |
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索 引 235頁 |
1,871.67 |
広告収入 |
873.00 |
|
表紙及外装 |
926.25 |
利子 |
1,258.18 |
|
|
8,002.21 |
其他 |
47.82 |
編輯費 |
|
|
合計 |
15,056.36 |
|
人件費 |
4,981.50 |
|
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|
抄録報酬 |
1,873.36 |
|
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|
|
6,854.86 |
|
|
広告消耗通信費 |
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1,318.58 |
|
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送 料 |
|
518.52 |
差引不足 |
1,637.88 |
|
合計 |
16,694.24 |
|
|
此赤字は現在では毎年相当数のバックナンバーの売行きありて,之を補填するのみならず却て黒字に転ぜしめて居る。併し経費は漸増の傾向の在るに拘わらずバックナンバーの貯蔵には限度あり。赤字を救う途は基金の増額又は会費の値上によるより他にない。今同筆者の退官に当りて,記念事業会を組織して専ら本事業の確立と発展との為に大方諸君より多額の金額を醵出せられたことは実に感謝に堪えない次第である。之によりて当分は後顧の憂なく日本化学総覧の充実改善並に其発展に邁進し得るに至ったことを衷心より喜びとするものである。本書の編纂に当りて筆者が主幹として直接其衝に当りたるは最初より昭和5年頃迄13年間位にして第1集第4巻迄の編輯に従事した。其間大正10年より同14年迄は東北帝国大学金属材料研究所助手故櫛引純二郎氏の援助を受けた。第4巻後半以後は理学士黒沢惇造氏の協力に由った。第2集の月刊雑誌を発行するに際しては東北帝国大学教授箕作新六,同小林松助両博士の助力を受くること多大であった。而て昭和8年余が仙台を離るゝ少しく前より,東北帝国大学教授藤瀬新一郎氏が専ら不在理事長の任を代行せられて今日に至った。同氏は尚ほ同学教援富永斉氏
とともに編輯を分担して居られる。東北帝国大学教授原龍三郎氏亦本事業に多大の関心を寄せられ,氏の斡旋によりて昨年より工学士半田正雄氏を編輯員として迎うることを得て,陣容一段の強化を見た。大正15年正月櫛引氏の歿後本会に入りたる迫利右エ門氏は編輯及び事務両方面を担当し,大里トヨ氏亦多年編輯補助員として事務方面をも引き受けられ尽力せられた。其他直接間接に本事業を援助せられた藷君は甚だ多いが今一々之を記すことを省略する。
即ち現在編輯室に在る専任者は下の如くである。
編輯員 |
理学士 |
黒 沢 惇 造 |
編輯補助員 |
大 里 ト ヨ |
|
工学士 |
半 田 正 雄 |
|
黒 川 運 司 |
|
|
迫 利右エ門 |
|
伊 藤 美四子 |
|
|
|
雑 務 |
伊 藤 賢 次 |
日本化学総覧編纂は大正10年及12年の両回に亘り財団法人啓明会より多額の援助を受けて始めて之を実行する事を得たのであった。然るに編纂殆ど成りたるも其出版を引き受ける書肆を見出し得ず遂いに故藤野懿造,池田菊苗両氏を始め高岡斉,杉野目晴貞氏等多数の諸君の尽力により,多額の寄附金を得て財団法人日本化学研究会を設立して自力発刊するに至った。筆者は理事長として今日に至て居るが現在役員は理事5名,評議員20名,幹事2名あり。法人の目的は”我が国に於ける化学研究の連絡を図り其進歩発達を助成する”に在りて目下は専ら日本化学総覧第2集の刊行に従事して居るが,資力さえあれば目的の線に副う他の事業を行うても差支えなき筈である。
本会が堅実に発展して所期の目的を達し我学界の為に聊か貢献して居るのは実に此等法人の役員諸氏其他前期編輯関係各位に負うところ甚だ大なるものあり,謹で其の御助力を謝する次第である。
更に最後に笹氣印刷所の多年に亘る協力に対して深厚の謝意を表せざるを得ない。即ち本事業は筆者が東北帝国大学在任中に創始したる関係上初めより仙台市に於て遂行して居るが,印刷は当初東京築地活版製作所に於て行った。其ため甚だ多くの費用を要し経営漸く困難ならんとしたが仙台市の笹氣印刷所に於て昭和
7年以来極めて低廉に引き受けられるに至り,遂に経済上の破碇を免れて今日に至ることを得たのである。これ実に山版事業の如きは東京以外では行われ難きがごとく考える人々のために其迷夢を醒ますものというべきであろう。
(四) 邦文の世界的化学総覧の刊行に就て
我邦に於て各方面の化学を振興せしむるためには邦文の世界的化学総覧の刊行が必要なることは已に前にも記したが,之に関しては東京帝国大学助教授友田宜孝工学博士も亦熱心に之を唱えられて居る(エ業化学会誌:昭14,201)。他に同感の士も甚だ多いことと信ずるにより,早晩其実現を見るに至るであろうが,之を実行するに当りては如何になすべきや,日本化学総覧発刊によりて得たる経験によりて聊か卑見を述ぶることを許容されたい。
之は甚だ困難な事業であるから最初から完全なる世界的化学総覧を出さず,漸進的に次の3段階を経るのが却て実行しやすくはないかと考えられる。但し日本化学総覧は当分現状の如くにして存続する。
第1段階。現在の我邦に於ける外国化学的文献抄録を従来の所載雑誌に掲載することを廃して之をlケ所に集めて出版する。即ちR(A−x)の抄録が出来る(Aは外人化学文献総数,xは抄録を行わざる文献数,Rは抄録の因子)。
第2段階。似上の外にxの抄録せざるものには著者と題名のみを附して出版す。則ちR(A−x)+Nx(Nは著者と題名のみを附することを示す因子)。
第3段階。漸次以上のxを滅ずるときは次第に外国文献の完全なる抄録雑誌に近接する。而て成るべく速にxを0にするように努力する。
之から本事業のために要する軽費,人的要素及び之を行う母体につき少しく考察して見よう。
(イ)経費概算
第1段階の場合には(三)(イ)に記するところにより我邦の外人化学文献抄録総件数8,483あることを知る,之が少しも重複なきものと仮定し(a)工業化学会誌の体裁にて印刷するときには総頁数約1,740を要する。索引も亦同誌の程度にて我慢するとすれば人名及び事物索引合して約165頁となる,即ち総計1,905頁となる。之を日本化学総覧の経験により其抄録費,編輯費及び印刷費等を計算するときは下の如くになる。
印 刷 部 数 |
1,000 |
2,000 |
3,000 |
4,000 |
総 経 費* |
25,494 |
30,848 |
36,302 |
41,562円 |
一部当り経費(約) |
25 |
15 |
12 |
10円 |
(b)本文を日本化学総覧の体裁にて印刷するときは約2,500頁となり,索引も亦同誌の方式によりて作る時は約850頁となる。即ち総頁数3,350,之を(a)と同様に計算するときは下の如くになる。
印 刷 部 数 |
1,000 |
2,000 |
3,000 |
4,000 |
総 経 費* |
31,618 |
36,726 |
41,833 |
46,941円 |
一部当り経費(約) |
32 |
18.5 |
14 |
12円 |
*総経費=印刷経費(紙,印刷,製本,表紙代等)+編輯費(抄録科,編輯及校正費,雑費)
第2段階。今仮に独米の抄録総件数に近き62,000件をAとし,抄録を附けず著者名と題名とに止めるもの即ちxを50,000とすればA−x=12,000件には抄録を附することゝなる,之を仮に日本化学総覧の組方にて印刷すれば
12,000件の抄録本文R(A−x) |
|
=約3,500頁 |
50,000件の題名のみのNx |
|
=〃1,250〃 |
|
合 計 |
4,750〃 |
之に対して約35%として索引頁数 |
|
= 1,660〃 |
|
頁数合計 |
6,410〃 |
印 刷 部 数 |
1,500 |
3,000 |
6,000 |
印 刷 経 費* |
36,568 |
50,702 |
78,969 |
一部当り経 費(約) |
25 |
17 |
13円 |
*印刷経費(紙,印刷代,製本,表紙代)
こゝには編輯費を計上せず若し之を加算すればl部当り経費は凡そ倍額に達するならん。
第3段階。若しxを減少し,従てA−xが増加すれば頁数と編纂費との増大によりて経費は著しく膨張するであろう。精確なる計数は至難なるがx=0となったときには概算して抄録本文18,000頁,索引頁数約4,500頁と推定せられる(日本化学総覧の様式によりて)。即ち合計22,500頁の尨大なるものとなり,毎週約350頁の雑誌を出すことゝなる。6,000部を印刷するとして印刷費のみにて1部当り経費60円を突破する。総経費を計算すれば1部当り経費は其倍額に近かろう。若し之を英国の如く純正化学及び応用化学の2方面に分割すれば如何なるべきか恐く利害共に生ずべく其の検討は之を他日に譲ることにする。
即ち何所よりか例えば大化学エ業会社の如き方面より経済的に多額の支援を受けなければ,本事業の成立は期し難きことは明かである。併しながら本事業は経費が潤沢なればそれで成立するかというに更に一層重要なるものは人的要素であることをカ鋭せなければならぬ。
(ロ)抄録事業担当者に就て
他人の研究報告を抄録する仕事は極めて地味なものである。之を軍隊に譬ふれば第一線に立ちて進撃するのは研究をなす人々であり,抄録事業を行うものは戦線に在る人に各種の情報を斉らす諜報機関のごときものである。即ち其非常に重要なることは言うを要せぬが,世には第一線赫々たる功名にあこがれる人の方が多い。
彼の有名なオストワルドは研究を行うことを以て工場に於て生産に従事することに此し,参考書や教科書を著わすことを以て生産品を蒐集,運搬及び販売することに比して居る。而て研究者の多くは研究を尊重するに過ぎて著述を軽蔑する風あるを指摘し,生産品を宣伝販売するものがなければ科学は其功果を挙げ得ぬことをカ説して居る。且つ偉大なる研究者は往々同時に善き著者であることを注意して居る。恰も生産品の地元調べをしたり目録を造るような抄録事業は,著書に比して−層地味な仕事であるために其必要性は相当に認められても,自ら進で之に当らんとする滅私奉公の人が甚だ乏しき有様であることは慨嘆に堪えない。
前に記したごとく独乙の化学中央誌の歴代の編輯主任を見るに実に皆立派なる博士で,中には教授の肩書をさえ有した人が数人あった。又之を助けて居る現在の編輯員は大多数は博士であって,此位の学識と経験とを有せざれば満足に編輯事業を遂行し得られぬことを示すものである。此の如き主脳者を得ることの困難は勿論であるが,抄録者に適任者を得ることも亦中々難事である。然れども独,米に於ては多年の経験によりて抄録員の選択方法並に抄録委托方法よろしきを得て居るものと見え相当の能率を挙げて居る。
独 逸 化 学 中 央 誌
|
抄録件数 |
抄録員数 |
1938年 |
69,708 |
244 |
抄録員l名当り(約) |
286 |
|
〃1ケ月当り(約) |
24 |
|
米 国 化 学 抄 録 誌
|
抄録件数 |
抄録員数 |
1938年 |
65,432 |
444 |
抄録員1名当り(約) |
147 |
|
〃 1ケ月当り(約) |
12 |
|
さて日本化学研究会に於ては編輯員及び事務員に皆其人を得て居る事已に記した通りであるが,抄録に関しては未だ抄録員の充分なる協力を得て居るとはいわれない。之れは未だ経験乏しく事務的方法の不備なるに由るものが多いと思われる。其現状は下の如くである。
日 本 化 学 総 覧
|
抄録件数 |
抄録員数 |
昭和14年(1938年) |
2,208 |
129 |
抄録員1名当り(約) |
17 |
129 |
〃1ケ月当り(約) |
1.5 |
|
即ち甚だしく能率が悪い。
日本化学総覧昭和14年分即ち第13巻の抄録事項の分類を示すと下の如くである。
理 |
1,531 |
20 |
|
工 |
1,353 |
2,377 |
|
医薬 |
1,591 |
256 |
|
農 |
179 |
75 |
|
計 |
4,684(a) |
2,728 |
|
合計 |
|
|
7,382 |
また抄録件数,抄録員等の分類を見ると下の如くになる。
抄録委託先き |
抄録員 |
抄録件数 |
|
1人平均 |
1人最大件数 |
理 学 部 関 係 |
68人 |
683件 |
|
10件 |
53件 |
工 学 部 関 係 |
9 |
41 |
|
5 |
16 |
金 属 材 料 研究所 |
48 |
243 |
|
5 |
14 |
農 科 |
4 |
309 |
|
77 |
124 |
其 他 外 部 |
|
932 |
2,208 |
|
|
編 輯 室 |
|
|
1,699 |
|
|
表 題 の み |
|
|
636 |
|
|
計 |
|
|
4,543(b) |
|
|
(a)は14年1月−14年12月迄の数字 l
(b)は14年2月〜15年1月迄の抄録料支払表によりて調査したるに因りて(a)と(b)
との数字に100余の相違を生じた
即ち委托先きによりて一様でないが,平均して1人1ケ月約1項目の抄録が頂戴出来ることになって居る。それにも拘わらず抄録が遅れ勝ちである。其のために編輯室に於て非常に多くの抄録を行い,且つ特許に関するものは悉く之を編輯室にて抄録して迅速に発行することを期するの已むなき有様である。併し編輯員が抄録員を兼ねる事は其の本来の任務を行う時間を減じ,不合理極まるものであるから目下之を廃止せんとして抄録員嘱託方法及び抄録委托方法等の改善につきて研究中である。
若しも上記のごとき抄録こ関する事務的方法に出来る限りの改善を施して見ても,尚独米等の抄録能率に及ばないようなことがあったならば,之は我邦の人が斯かる「縁の下の力持ち」的の仕事を好まざる性癖に由ると考えるの他はないが,筆者は決して左様の心配はないと信じて居るものである。何となれば現在でも最大の場合l人にて1年に124件を抄録され米国の1人当り件数に近い人があるからである。
偖て之によりて考えねばならぬことは邦人が邦文の原報を抄録するのにさえ事務的方法が不完全であれば甚しく能率の悪いことである。日本化学総覧に抄録しておる文献は大部分邦文であって,英独仏文にて記したるものは甚だ小数であるが,若しこの状態で外国の化学的文献を原文より直接に抄録するときには其の能率は著しく低下することは到底免れないであろう。某帝大教授の自己の経験として語られるところによれば,研究以外他に特別の仕事なく専ら抄録に従事するとして毎月10件の外国原報の抄録は可能ならんと。但し勿論論文が相当多くの頁数を有する場合のことである。然らば先づこの程度の人を400人は揃えなければならないことになる。仮りに英,仏,独語の場合には適当の人を得られてもロシヤ,イタリヤ,スペイン語等の読める化学者は我邦に何人有ろうか心配である。若し人がいなければ此種の国語の論文に限り独乙の化学中央誌又は米国の化学抄録誌と特約して重訳する他に途はなかろう。即ち仮に潤沢なる経費がありても人的要素に於て大なる困難を覚悟しなけれはならぬ。
(ハ)抄録事業経営の母体に就て,並に結言
さて愈々邦語世界化学総覧を出すときには之を如何なる所にて発行すべきや,巳に記したる諸外国の例に徴するもこれは如何に大なるも日本の一化学関係学会で出すことは困難であろう。即ち之を発行する母体は我邦既存の大なる化学関係の学会及び協会が連合して造るところの日本化学協会の如きものであるべきであろうと信ずる。
我邦に於ては薬学会を除きては工業化学会も農芸化学会も皆日本化学会の前身東京化学会から分離発達したのである。之は学問の発達して行く趨勢から已むを得ない事であるから今更又これ等の学会を統一しようというのではなく,唯邦語世界化学総覧の刊行というごとき大事業のためには之を協力して行うための便宜上から,各自の会はそのまゝにして連合しようというのである。斯くて従来より外国の文献抄録をやって居たものは益々之を拡充し,これまでやって居なかったところは之を始めることにして各自の雑誌には之を載せず,日本化学協会発行の世界化学総覧に之を載せ,有能なる編輯主任及び編輯員等を共同物色して其の事業を委托すべきであろう。特に目下急速に国カの充実,国防の強化を計りつゝあるとき重複の無駄を省き,協力の緊要なることは言うまでもない。往々提唱せられる化学会館の建築のごときも如何に大なる学会であっても其一学会のものとすべきでない,上記の日本化学を打って一丸とせる協会の事業となすべきであろう。而て世界化学総覧の発行も若し化学会館が出来れば其の内に之が編輯所を置くべきであろう。即ち独乙に於てホフマンハウス内に化学中央誌の編輯所
があるごとくにすべきであろう。
日本化学研究会は今般筆者の退官紀念事業会より多額の金子を寄附せられたのでその経済的の基礎は極めて安定となった。併し之は日本化学総覧の発行を継続する場合の事である。若し世界化学総覧が発行せられる際には日本化学総覧は如何になすべきや,筆者の私見では之は仏国の例にありたる如く当分日本化学総覧を出版するのが最も適当と信ずる。何となれは斯様にすれば我邦化学の進歩と海外の進歩とがよく比較対照し得られ,我化学界の奮起を促す一助となるからである。此の時機に到達すれば微力ながら日本化学研究会は会を挙げて日本化学協会に捧げ,過去10数年間抄録事業に尽瘁して得たる多少の経験を似て出来る限りの協力を予め茲に誓約するものである。又斯くすることが日本化学研究会創立のとき及び今回其の強化のために大方各位の寄せられたる深甚なる御厚意に対して真に酬ゆるの途であると信ずるものである。
−完−
〔真島利行者「世界に於ける化学的文献抄録事業に就て」(1941)〕